真多呂人形の考えるお祝いの伝統
元文年間の加賀人形
木目込み人形の歴史は古く、その誕生は元文年間(1736~41)といわれ、今からおよそ270年前ほど前となります。場所は京都で、当時神賀茂神社に仕える堀川家というのがあり、そこに仕える宮大工であった高橋忠重という人が初めてこの木目込み人形をつくったというのが、現在様々な説がある中で最も信憑性のあるものだと思われます。
木目込み人形のはじまり
堀川家は代々、神賀茂神社に仕え、祭りごとに使用される諸道具を納める職業で、その中の道具である柳筥(やないばこ-神事に用いられる小物を入れる箱)を作った時の余材を使用して、暇をみて作ったものが木目込み人形の始まりだと思われます。この柳筥等の道具は賀茂川のほとりに茂る柳の木を用いて作られいたので、その余材で人形を作り、木彫の人形の上に神官の衣装の端布等を木目込んで人形作りを楽しんでいたのでしょう。
当時のものは衣装もごく地味なものが多く、現在などのように金襴などきらびやかなものは使用されていませんでした。そして通説ではこの技術が子から孫へと引き継がれました。孫の大八郎が名工であり、いわゆる大八郎人形として多くの名作を残しているとされていますが、実際に京都で調べてみると、この大八郎というのは高橋家の異名であり本名は大八郎忠重と言ったのではないかという見方もあります。
いずれにしても、現在でもかなりの数の賀茂人形が残されていることから察してもただ一代一人だけの作品とは思われず、やはり何代か続けられたものであることは事実でしょう。
以上のように木目込み人形の起源については確かな資料も残されてはいませんが、木目込み人形がこの時代に京都の洛北、賀茂川のほとりで生まれたというのは確かなことです。
木目込み人形の名の由来
当時はこの人形は賀茂人形、あるいはその材質から柳人形と呼ばれており、木目込み人形という呼び方は後からつけられた名称のようです。なぜこの人形が木目込み人形と呼ばれるようになったかという由来についても二通りの説があります。
ひとつは木の目(筋)に衣装を着せてゆくところからその名がついたというもの、また、他の説では衣装を人形自体に”木目込む”のでその名がついたといわれています。
それまでの人形といえば、縫い合わせた着物を着せたいわゆる着せ付け人形か、あるいは木彫に彩色を施した手法によるものであったのが、ここで初めて木彫に筋を入れ、そこに衣装を着せた新しいタイプの人形が出現したわけで、当時は大変珍しがられ、京都からの高級な土産物あるいは贈り物として各地に持ち帰られ、送られたようです。
木目込み人形の特徴
この人形のもっとも特徴とするところは、彫刻したあと磨きをかけたり塗ったりしないので、顔や手足などは素材である柳の木の青みがかった地肌がそのまま生かされていることです。最初は、その木の新鮮さが香りを漂わせ、枯れるに従ってまた別の風格を増し大変味わい深い人形だったようです。
その顔立ちは、鼻筋が高く、あがり口でさがり目といった顔全体に絵美をたたえるような穏やかな顔つきが特徴です。表情も非常に豊かで数体で踊る人形たちはそのひとつひとつがそれぞれ異なった表情を示してその製作技術の優秀さ、あるいは細かい気配りがしのばれます。人形の採寸は小さなものが多く、せいぜい五、六センチから十センチくらいのものですが、これだけにその小さな顔に異なった表情を表現する技術は驚くべきものがあります。
現在でもかなりの数の当時の人形が博物館などに保存されていますが、それらのすべてがかなり良い状態のままで残されていることがこの賀茂人形のもう一つの特徴でしょう。
その理由はこの人形の衣装の本体が木であるために、型くずれがないということなのです。博物館や京都の古いお寺などにある古い人形を見ても、完全に当時の姿を留めているものはなかなか見つけることができません。普通の衣装人形(わらなどの胴体に縫い合わせた衣装を着せたもの)などはその衣装の中がわらや布で出来ているため、長年箱に入れたままになっていたり、あるいは押しつけられたりすると人形の形が変わってしまうからです。現在の木目込み人形はほ、とんどがこの当時のもののように木彫に衣装を着せたものではありませんが、その特徴は生かされ受け継がれています。