真多呂人形の考えるお祝いの伝統

木目込み人形の真多呂人形へ

木目込み人形の例

歴史的に見ますと、木目込み人形は明治の初め頃までは当時と同じ製法で作られていたようですが、明治時代の終わりから大正時代にかけてその製法にあたらしい技術がとり入れられました。

当時の製法では木彫の数だけしか人形が制作できず、その数も極端に限られていました。そこで当時の人形師吉野栄吉は、京都でこの賀茂人形の技術を身に付けたあと、なんとかして大衆に普及することはできないものかと研究しました。その苦心の末、現在行われているような画期的な製法を考え出しました。

画期的な製法が登場

その製法とはまず原型となる人形は従来のように木を彫って作り、出来上がったものには衣装を着せず、それを原型として初ヤニを利用して鋳型を作ることです。その鋳型の中に、木(主に桐の木を使用)を粉末状にしたものと正麩糊を混ぜて練り合わせた彫塑(ちょうそ)を詰め込み、両側から合わせて強く押すと原型の木彫と全く同じものを作ることができます。そしてこれを鋳型から抜き取り、乾燥させると、この材料である彫塑は木と全く同じ状態になり、そのものを彫ることも削ることも可能で、型崩れしない理想的なものになりました。

正統伝統者認定証この画期的な製法の発明により、同じ型の人形が同時にほしい数だけ作れるようになりました。この製法は明治、大正、昭和の初期の名匠と言われた吉野喜代治。名川春山などにより受け継がれ、それはやがて、初代金林真多呂の手によって完成され、大きな花を咲かせるに至ります。

 

 

初代真多呂と平安朝の美の世界

正統伝統者認定証初代真多呂はこれらの先駆者たちの伝統を受け継ぎながらさらに改良を加えて、作風に大きな特徴を創り上げていきます。すなわち、それまでの木目込み人形が浮世絵物、歌舞伎物、あるいは童物が主体であったのに対し、日本古来の美しさを平安時代に着眼しました。そして平安朝の雅やかな絵巻の世界をテーマにした十二単などの絢爛豪華な衣装を用いた作品は従来のものより大きめで、それまでの木目込み人形のイメージを覆し、新しい木目込み人形の時代を築きました。

それはただ単に作品が大きく豪華な衣装をつけているためだけでなく、どんな小さな作品に対しても妥協を許さない時代考証を基礎に人形の持つ生命である可愛らしさ、美しさを追求した製作態度の結果といえるでしょう。

正統伝統者認定証現在、木目込み人形の普及は著しく、多数の作家により作られ、三月の雛人形などに至ってはその占める数も衣裳着の人形と半数を分けるまでになりました。二百七十年前に賀茂川のほとりに生まれた人形は今もその技術が受け継がれ、多くの愛好者によって鑑賞されています。